貧民街で暮らす少年/エドソン(レオナルド・リマ・カヴァーリョ)は、”ペレ”という愛称を嫌いヂッコと呼ばれていた。
靴磨きを止めて友人のフォフィーヨやユーリと共に路地に向かったヂッコは、つぶれたボールに丸めた洗濯物に詰めてサッカーを楽しむ。
帰宅したエドソンは母セレステ(マリアナ・ヌネス)に叱られる。
帰宅した元サッカー選手だったヂッコの父ドンジーニョ/ジョアン・ラモス・ド・ナシメント(セウ・ジョルジ)は、その様子を見つめる。
ブラジルとウルグアイの試合は1対1の同点のまま動かず、79分にウルグアイが得点してブラジルは敗れる。
マラカナン・スタジアムの20万人の観客は沈黙し、国民は悲しむ。
ひざの故障のためサッカー選手としての夢を叶えらえなかった父ドンジーニョが涙する姿を見たヂッコは、自分がワールドカップでブラジルを優勝させることを約束する。
ヂッコの気持ちは理解するものの、ドンジーニョは、母のためにまじめに学校に行き、サッカーのことなど忘れるようにと伝える。
裕福な家の掃除婦をする母セレステの仕事を手伝っていたヂッコは、好きではなかった愛称”ペレ”の名で自分を呼ぶ、その家の息子ジョゼ・ジョアン・アルタフィーニに侮辱される。
地元の大会に出場したヂッコは、仲間達と共に裸足で戦うものの、それをジョゼらに馬鹿にされる。
スパイクシューズを買うために、ピーナッツを盗んでそれを路上で売ったヂッコらだったが、それをからかうジョゼらと喧嘩になる。
帰宅したヂッコは、先生に殴られた傷だとセレステに話す。
学校に抗議に行くと言うセレステだったが、ドンジーニョが学校に行くことを彼女に伝える。
喧嘩をしたことをドンジーニョが黙っていてくれたことに感謝したヂッコは、プロ選手になることに対して父が助言してくれたために嬉しく思う。
中古ではあるがスパイクシューズを手に入れたヂッコらは、”サントスFC”のスカウトで、元ブラジル代表のワルデマール・デ・ブリート(ミルトン・ゴンサルベス)が見守る中、ジョゼのチームと決勝を戦うことになる。
試合はジョゼのチームが6点を取り一方的なリードとなり、侮辱されたヂッコは怒りがこみ上げるものの、ドンジーニョの姿を見て冷静になり、裸足になってプレーをする。
路地で遊んだことを思い出しながら戦ったヂッコは得点し続け、1点差まで追い上げるものの負けてしまう。
落胆するヂッコだったが、その場の人々からの”ペレ”コールを嬉しく思う。
ドンジーニョは、ヂッコのプレーに目を付けたワルデマールから名刺を受け取る。
ピーナッツの業者が現れたことに気づいたヂッコらは、雨が降る中その場から逃げる。
足首を痛めたチアゴと共に地面の穴に隠れたヂッコは、ワルデマールがドンジーニョに名刺を渡すのを見ていたチアゴから、サッカーの才能を生かせばスラムから抜け出せると言われる。
雨のために穴が崩れてチアゴが生き埋めになり、這い出たヂッコは、業者に助けを求める。
チアゴは亡くなり、帰宅したヂッコは、セレステに自分の責任を認める。
友人の死にショックを受けて悲しむヂッコは、まじめになることをセレステに約束する。
ドンジーニョからワルデマールの名刺を渡されたセレステは、それをしまってしまい、放課後はヂッコを病院で一緒に働かせるようにと伝える。
サッカーを諦めてドンジーニョと共に病院で働くようになったヂッコは、夢が叶えられなくなったことで落ち込む。
そんなヂッコを励まそうとするドンジーニョは、マンゴーの実を使ってサッカーのテクニックを教える。
しかし、サッカーに対する情熱を失ったヂッコは、その気にはなれなかった。
そんなヂッコは、諦めないドンジーニョと共に、マンゴーの実を使いテクニックを身に着けながら成長する。
15歳になったヂッコとドンジーニョが、サッカーを楽しみ語り合う姿を見たセレステは、ワルデマールを呼び寄せる。
ワルデマールからサントスFCに誘われたヂッコは、セレステに感謝する。
1956年、サントス。
家族に別れを告げてワルデマールと共に旅立ち、サントスFCに入団したヂッコだったが、ヨーロッパ式のプレーを教え込むコーチから個性を出すことを禁じられる。
ユース・チームに入ったヂッコは、思うようなプレーができないために苦しみ、故郷に帰ろうとする。
それを知ったワルデマールは、駅のホームで列車を待つヂッコと話す。
皆と同じようにできず、コーチからプレーが古いと言われたことで自信を無くしていたヂッコに、ワルデマールは、そのスタイルが始まった16世紀のことを語り始める。
この国を植民地にしたポルトガル人に連れて来られた黒人奴隷は、意志の強さから反発して多くが森に逃げ込み、自衛のために、”カポエイラ”の基本ステップ”ジンガ”を身につけて抵抗した。
その後、奴隷制は廃止されたもののカポエイラは禁止され、黒人達はその技をサッカーに生かした。
ジンガは進化して黒人だけのものではなくなり、ブラジル人の内に秘めるリズムとなった。
しかし、1950年のワールドカップでの敗戦はジンガが敗因だと考えられ、そのため、コーチが同じことを求めているとワルデマールはヂッコに話す。
自分達もジンガを取り除こうとしたが、ヂッコの中のジンガは強いと言うワルデマールは、真の自分を受け入れたらどんなことが起きるかを見せてほしいと伝える。
そのつもりがないのなら、到着する列車に乗って帰るようにとヂッコに伝えたワルデマールは、席を立ちその場を去る。
チームに戻り試合に出場したヂッコは、父ドンジーニョとの練習の日々を思い出しながらボールをキープし、オーバーヘッドキックでゴールを決める。
コーチに呼ばれたヂッコは謝罪するものの、もう一度やるようにと指示される。
4ゴールを決めたヂッコは注目されるようになり、プロ・チームのジト(フェルナンド・カルーソ)に気に入られる。
その後、ヂッコのプレーは人々を驚かせて実力は評価され、ジュニア・チームを経ずにプロ・チームに昇格する。
そして、ユースで解雇寸前だった少年は、チームの得点王として活躍を続ける。
母セレステと家族のためにオーブンを買って故郷に戻ったヂッコは、父ドンジーニョにはラジオをプレゼントする。
翌日、ワールドカップ・スウェーデン大会の”セレソン”(ブラジル代表)の発表があり、16歳のヂッコも選ばれる。
親友のユーリと話をしたヂッコはチアゴのことを想い出し、フォフィーヨが刑務所に入っていることを知り驚く。
町の誇りだと言うユーリは、皆で応援することをヂッコに伝える。
旅立つヂッコは、ユーリが作ってくれた、”ペレ”の文字が入ったベストを渡される。
からかわれた名だと言うヂッコは、ジンガを認めてくれた人々が呼んでくれた名であり、何事も恥じずに信じることだと、ドンジーニョから助言されて町を離れる。
1957年、リオデジャネイロ。
パーティーに出席したヂッコは、同じ代表選手のガリンシャ(フェリペ・シマス)にからかわれるものの、チームメイトを紹介される。
ライバルになると言われたマゾーラ(ディエゴ・ボネータ)が、かつて地元で戦ったジョゼだと知ったヂッコは驚く。
記者会見でジンガのことを訊かれたヂッコは、ジンガは悪くないと答えるものの、監督のヴィセンテ・フェオラ(ヴィンセント・ドノフリオ)がマイクを奪う。
その後、フェオラの部屋に呼ばれたヂッコは、ジンガはレベルが違う国際試合では通じるとは限らないと言われ、ジンガをやらないことを誓わされる。
優勝が使命であるフェオラの苦闘は続き、ヂッコもまた、”自分を信じる”という父との約束があり苦悩する。
そんな時、試合中にタックルを受けたヂッコは、ひざを負傷してしまう。
家に電話をしたヂッコは、負傷したことをセレステに話し、学校に行っていればよかったと言って諦めかける。
家族皆で選んだことであり、正しい選択だと伝えてセレステは、何があっても自分達は味方だと言ってヂッコを励ます。
チーム・ドクターは、ヂッコは来期なら復帰できると診断し、スウェーデンに連れて行くなら診るとフェオラに伝える。
交代選手がいないと言うフェオラは、ヂッコにリハビリをさせようとする。
その後もフェオラのチーム作りは批判され、その状況でセレソンはスウェーデンに向かう。
1958年6月。
各国チームは到着し、ヨーロッパの開催で中南米は優勝していないために、地元スウェーデンへの期待が高まり、評価が低いブラジルは沈黙する。
6月8日、ヒンドス。
治療とリハビリを続けるヂッコは、グループ4の第一戦であるオーストリア戦を見守る。
3対0で快勝したフェオラは、完治していないものの痛みが残っている程度のヂッコを練習に参加させる。
6月11日。
イングランドと対戦したブラジルは0対0の引き分けとなり、マゾーラら3選手が負傷してしまう。
6月15日、イエーテボリ。
ソ連とのグループ最終戦、ジトとガリンシャ、そしてヂッコが先発出場する。
緊張するヂッコは吐いてしまい、フェオラから渇を入れられ、ドクターからは危険なジンガを禁じられる。
スタンドに向かったヂッコは、大観衆に圧倒される。
バウルでは、ドンジーニョが住人と共にテレビに映る息子を誇らしく思う。
試合は始まり、体格で勝るソ連選手はブラジル選手を弾き飛ばす。
開始3分でババがゴールを決めるものの、ヂッコの動きに精彩はなかった。
試合は、77分にもババが決めてブラジルが勝利する。
6月24日、ソルナ。
準々決勝のウェールズ戦をヂッコの決勝点で勝利したブラジルは、強豪フランスと戦う。
試合開始直後にブラジルはババのゴールで先制するものの、数分後にフランスのストライカー、フォンテーヌのゴールで同点に追いつかれる。
前半が終了し、自信を無くしたヂッコは、脚が大丈夫なら交代してほしいとマゾーラに伝える。
脚は問題ではなく頭だと言うマゾーラは、ここに来るまではずっとヨーロッパ人になりたかったが、自分がブラジル人だと自覚したことをヂッコに話す。
かつて、バウルで自分達に真の姿ジンガを見せてくれたと言うマゾーラは、今こそジンガが必要だとヂッコに伝える。
後半が始まり、52分、ベンチのマゾーラの眼差しを見つめるヂッコは、ボールを奪って突進し華麗なゴールを決める。
続く64分にもゴールしたヂッコは、75分にも得点を決めてハットトリックを達成する。
5対2で勝利したブラジルが決勝に進出し、国内は熱狂する。
帰宅したドンジーニョから、ヂッコが無事だと言われたセレステは安堵し、3ゴール決めたことを知らされる。
地元スウェーデンとの決勝を控えて、フェオラは新たなフォーメーションを考えてトレーニングする。
両チームの記者会見が開かれ、前の試合で活躍したヂッコのことを訊かれたスウェーデンの監督ジョージ・レイナー(コルム・ミーニイ)は、彼には仕事をさせないと答える。
ブラジルを”おかしなチーム”と表現するレイナーが、皮肉を込めて選手の身体的な欠陥まで話し始めたため、気分を害したフェオラは席を立つ。
ドンジーニョと電話で話したヂッコは、マゾーラが言いだし、今ではチームメイトからペレと呼ばれていることを伝える。
フランス戦で自分を信じたように、チームの仲間達にも自分自身、そしてブラジル、ジンガを信じさせるようにと、ヂッコはドンジーニョから助言される。
翌日、朝食中の仲間達が元気がないため、灯台までリフティングをすることを、ペレは皆に提案する。
選手達はリフティングを始めて、ホテル内から外に出て灯台に向かう。
(ホテルのロビーにいる男性はペレ本人。)
リラックスした選手達に対してフェオラは、先週までの戦い方では負けると言って、それは自分のせいだと話す。
練習のフォーメーションは自分達には無理だと言うフェオラは、今朝のリフティングが自分達のプレーだと伝える。
自分達にはジンガがあり、ブラジルそのものだと言うフェオラは、今まで教えたことは忘れて、真のブラジルを世界に見せようではないかと選手達に語り掛ける。
それで勝てるかは分からないが、間違いなく美しい試合は見せられると伝えたフェオラは、練習を始める。
6月29日、ソルナ。
ジャージを渡されたペレは、ユーリが作ってくれた”ペレ”の文字が入ったベストを中に着る。
スウェーデン優勢の内に試合は始まり、4分にリードホルムが先制点を決める。
9分、ボールを奪ったペレが敵陣に向かい、ババが同点ゴールを決める。
自信に満ち溢れるブラジルは、32分に再びババがゴールを決めて勝ち越す。
地元の観客はショックを受けて静まり、母国の華麗なプレーを目の前にしたブラジルのラジオ・アナウンサー(ロドリゴ・サントロ)は、その素晴らしさを伝える。
テレビで試合を観戦するドンジーニョは、周囲の人々が、選手と祖国を誇りに思い感激していることに気づく。
55分、浮き球で相手のディフェンスを交わしたペレは、ボレーシュート決める。
スウェーデン国王グスタフ6世他、会場の人々までもがブラジルのプレーに喝采を送る。
68分にはザガロがゴールを決め、ドンジーニョは、現れたセレステを抱きしめる。
80分にスウェーデンに得点されるものの、90分にペレがヘディングシュートを決める。
ブラジルは勝利し、倒れ込んだペレをチームメイトが抱きかかえる。
初優勝を成し遂げたセレソン、そしてブラジル国民は喜びを分かち合う。
帰国して熱狂的な歓迎を受けたペレは、8年前に優勝を約束したことを父が言うまで忘れていた。
エドソン・アランテス・ド・ナシメントは、”ペレ”となったこの年を決して忘れない。
ジンガは美しい試合の代名詞となり、人々は国中からそれを見に来た。
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1961年、クアドロス大統領は、ペレを国宝と宣言した。
17歳でのワールドカップの得点と優勝は、現在でも最年少記録である。
ペレとブラジル・チームは、続く1962年と1970年のワールドカップも制し、3大会の優勝経験者はペレだけである。
通算得点1281は史上最多記録である。
1試合ヘディング5得点は、ペレも達成していない。
達成したのは、ペレの父ドンジーニョ・ド・ナシメントである。
IOC/国際オリンピック委員会は、ペレを20世紀最高のアスリートに選んだ。
1958年のワールドカップ・スウェーデン大会以来、ブラジルのジンガは全世界で称賛されている。